(河北アルファ 1990 NO.76に掲載)
五十代ぐらいの患者さんに、問診でご主人との性生活のことを質問してみると、意外とさめた、否定的な答えが多いんですね。
「同性の友達と付き合っている方が楽しいし、もうそういうことはいいです。」とおっしゃる方や、「いやだけど、“月二回だけ”という約束で、しぶしぶ主人に付き合ってる」という方もいます。中には「この年になっても、こういうことを求める夫は不潔」とはっきり言い放つ方もいらっしゃるんですね。「二人が健康で暮らしていれば、それでいいじゃないか」と言うかもしれないけれど、長年連れ添ってきた夫婦がそれじゃあ、なんだか寂しいな、という感じがするんです。
「なぜ、そのようにうとましく思うようになるのかなあ」ということなんですが、そこに至るまでの、夫婦の間の性のあり方に関係があるのではないかーその女性にとっては、決して豊かで喜ばしいものではなかったからではないか・・・という気がするんです。言ってみれば二人がたどってきた若い時からの性の歴史の結果ですね。
年を重ねれば重ねるほど、「ああ、この人と一緒にいてよかった」と思いたい。女と男が、同じ目の高さで向き合って、成熟した関係をもって生き続けられたら・・・というのが、私の願いなんです。
私自身、二十代のころには、四十代などというと、すっかりオバタリアンで、“性”などには関係ない人種だろうと思っていたんですね。でも、実際に四十代になってみると、どうもそうじゃない。 人生の後半をよりよく生きるためにも、夫婦でもっと率直に“性”という面を見つめ、充実させていくことが必要なんじゃないか、それが今日のテーマです。
若い時からの夫婦の性のあり方が、中高年になって問われる、女にとって幸福ではなかった性は、やがて“うとましさ”になっていくと言いましたが、それでは、豊かな性関係を阻んでいるものは何なのかを考えてみましょう。
一つは、「女は男に従属するものである」という価値観だと思うんです。
男は仕事、女は家庭という性別役割分業が、「男は偉い」「外で働く者は偉い」「だから女は男に尽くすべきだ」という価値観を生んでいるとしたら、それは必ず、性の場面にも反映されますね。
妻には、どこかに性行為は夫に対する奉仕だという意識があって、そこから自由になれず、自分自身の喜びとすることができないわけです。
もう一つ、今までの性通念の歴史も、女と男がよりよい性関係を築こうという時の足かせになっていると思うんです。
女には貞淑であることが求められ、特に性に関してはいけないことづくめ。自分の生殖器に目を向けることさえ、ふしだらなことで、まして性行為が喜びであるなどと思うのは、恥ずべきことだと教えられてきた。そういう長い歴史の延長線上に今があるんですね。
一方、男はどうかというと“浮気は男の甲斐性(かいしょう)”という言葉があるくらい、寛大で、遊びとしての性行為も横行してきた。ですから、そのようなバックボーンからお互いが抜け出して、自分の中にある精神的な足かせを、一つ一つ取り払っていかないと、同じ高さに立つ、成熟した男女の関係は生まれないと思うんです。
ここで、人間に備わった性とはどのようなものなのかを少しお話ししましょう。
生殖性、快楽性、連帯性という三つの面が、人間の性にはある、といわれています。
生殖性、快楽性についてはあえて言う必要もないと思いますが、連帯性というのはどういうことかといいますと、性行為が、二人の間に精神的な固いきずなを生む、ということです。それはなぜかといったら、「愛し合う」という、人間ならではの心の交流があるからなんですね。
この三つの要素を、どうバランスをとっていくかは、それぞれの生き方に根差した問題であって、みんな違っていて当然だと思うんです。
先日、十七人目のお子さんの誕生を喜ぶご夫婦のことが新聞に載っていましたが、このように生殖性を大切にした価値観を持っている方もあれば、中にはいろいろな事情から子供は産まない、つまり生殖性を押さえて生きておられるけれど、素晴らしく愛情豊かなペアもいるわけです。
それでは、快楽性ということがどのようにとらえられてきたかといいますと、必ずしも肯定的ではありませんでした。
また、現代の社会の中では、性が商品化され、巷(ちまた)には性風俗産業があふれ、人間の性の三つの要素のうち、快楽性だけを突出して追い求めるような風潮がまん延していますから、性の快楽を求める、というと、何か、やましいような、悪いことのようなイメージがつきまといます。
けれども、本当の意味で、愛し合った女と男が性という場面で向き合った時、快楽性という側面を抜きにしては、その充実はあり得ないと思うんです。ある方が「夫婦の間で快楽を求め合うことで、二人の関係はより強固になる」と言っておられましたが、全く同感ですね。
だからこそ、快楽イコール風俗産業というふうに誤解しないで、快楽性という性の一要素に正当な市民権を与えていかなくてはいけないと、強く思うんです。
食事になぞらえていうと、外食に楽しみを求めていて、家庭での食事があまり省みられていないんじゃないか。もう外食はやめにして、家庭での食事をこそ大切に、豊かにしなければというのが私の考えです。
快楽性の前提になるのは性欲です。性欲というのは、生殖本能に根ざした、人間の自然の欲求で、男女を問わず、だれでも持っているもの、決して恥ずべきことではありません。そのことをまず、正しく認識して、その次に男女の違いを知ってください。
ひとことで言って、男の性は、生得的といいますか生理的な作用が大きいのに対して、女性の場合は、学習、つまり経験によって作られていく性なのですね。
具体的な例として、性反応を見てみましょう。
性的な快感が最高潮に達した状態のことを、オーガズムと言いますが、男性の場合は、思春期の少年でも年配の方でも、いわば一つの生理現象として射精が行われれば、一様にそのような感覚が得られます。
一方、女性は十人十色。性の経験によって感覚がめざめてくんですよね。
適当なたとえかどうか分かりませんが、例えば車の運転にしても、スピード感覚や運転感覚は経験によって体得し、その体得によって車の運転の楽しみ、面白さが増していく、それと似ています。
ある外国人で、「女の性は、相手の優しさやテクニックによって作られていく工芸品である」と表現した人もいます。いずれにしても、経験を重ねることで、より豊かになっていく、無限の可能性を秘めた性。それが女性の性の姿なのです。
この違いを知らないために男性の一方通行な行為に終始してしまうことがあるかと思えば、他方には女にサービスする、などという言い方をする人も出てくる。しかし、それはサービスではなくて、二人の間により豊かな性関係を築く、コミュニケーションなんですね。
もう一つ、女性と男性に違うのは、一生を通じて、それほど変化の大きくない男の性に対して、女の性は更年期を機に急激に老化しやすくなるということ。そのことは、男性にもぜひ知ってほしいことです。
ある時、中年の女性が外来にいらして、診察したところ、ひどい炎症なんです。
聞いてみると、久しぶりに夫と向き合ったのだけれど、とても痛くてがまんできずにやって来たとおっしゃる。
病気のお姑さんがいて、その看病のために、5、6年も夫と寝床を別にしてお姑さんと寝起きを共にしてきた。夫もちょうど仕事が忙しかったために、そのままで過ぎてきた。最近、お姑さんが亡くなり夫も定年になって、ようやく長いこと絶えていたものを取り戻そうと、夫婦で向き合ったのだけれど・・・・ということなんですね。
その話を聞いてがく然としました。人のために尽くし、ようやく自分のために生きられると思った時、それがかなわない体になっていることを自覚せざるを得ない。
女性の性器は老化しやすく、性行為がないと、一層それが進みます。空白の年月は、すぐには取り戻せないのです。
どうして女性の性が老化するのかというと、生殖器を支配している女性ホルモンの分泌が減るからなんですね。そのことに関連して女性の体について少しお話しますと、女と男の体の違いは、ホルモンの構成によってきまります。男女どちらも男性ホルモン、女性ホルモンの両方を持っていて、女性ホルモンをより多く持っているのが女、男性ホルモンを多く持っているのが男なのです。
女性ホルモンは、ひとことで言うと、妊娠、出産を支えるためのホルモンで、更年期を迎えると、卵巣の働きが衰え、卵巣から分泌される女性ホルモンもかなりダウンします。
でも生殖という役割を卒業したからといって、女が終わるのではない。「よりよい性関係を保ち続けることは、いたずらな老化を食い止める鉄則」と言ってもいいのです。
私は年齢を問わず、性というものは、自分で選択してしかるべきものだと考えています
高齢化が進む中で、女性は生殖という役割を終え、体を支配していたホルモンが減少する更年期以降も、二十年、三十年もの人生が残されています。
その長い年月を、性抜きで生きられるでしょうか。
豊かな“性”は、豊かな“生”そのもの。人間は女も男も、命ある限り、性においても現役なのです。